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笹野高史先生の講演を聴いてきました2015/06/10

2月6日(金)に都内で弊社お得意様のご主催講演会で笹野高史先生「待機晩成 ~日本一の脇役が語る人生の美学~」というテーマでの講演を聴いてきました。

この日はご自身で運転される車(黄色のポルシェ)で颯爽と現れました。

控室でお話する中でご趣味が「珍名収集」とのことで私も珍しい苗字ですので大変興味を持って頂きご自身のスマホに登録されました。

淡路島で生まれ実家は造り酒屋、「こう見えてもお坊ちゃま」で“笹野のぼん”と呼ばれていた。
男ばかり4人兄弟の末っ子でお父様は3歳の時に結核で亡くなり、ご自身は「結核保菌者」、「ご希望の方にはお帰りの際に差し上げます、お若い方には特別に口移しで」とジョークで会場を笑いの渦へ引き込んだ。
お母様が若い時分に映画が大好きだった。
映画館に一緒に行き食い入るようにスクリーンを見つめる姿が今も脳裏に焼き付いている。
その母も11歳の時に亡くした。
母の影響もあってか祖母の財布から少しだけ拝借して映画館に通い詰めた。

中学に入り友人たちと「大きくなったら何になりたいか?」という会話をした時に恥ずかしながらこのことの意味すらわからなかった。
将来何になるかを決めなければならないのだと初めて理解した。
そして母が観ていた映画に出ている人たちは「映画俳優」という職業だと知った。
15歳の時ルックスを鑑みれば「映画俳優」を志してはいけないのだろうか?と思っていたところに世に出てこられ憧れたのが渥美清さん。
この人が出来るのならジャガイモみたいな自分でもできるかもと考えた。

ただどうすれば映画俳優になれるか全くわからない。
もちろん近所にも映画俳優は居ないし。
「映画俳優になる本」を買い、隠していたら兄に見つかり大目玉。
「お前がなれる訳無い」と言われ「絶対になってやる」と言い返し、もしなったら淡路島中逆立ちして歩くという誓約書を兄に書かせた。
残念ながらそれは無くしてしまったが思い出して後日兄に「そういうことがあったよね?」と訊くと「記憶にございません」と一蹴された。

周囲には「映画俳優」を志しているとは一言も言えず大学に行こうと調べると日本で唯一「映画学科」が日本大学芸術学部にあった。
その中にも4つのコース①演出(監督)、②技術(カメラマン)、③脚本、④俳優があり、願書提出時に選ばなければならない。
誰にも言ってないのでさすがに④俳優コースとは書けないので演出コースを選び嘘を付いて周囲を欺き上京。

演劇のサークルに入り、自由劇場のメンバーと親しくなり裏方としてスタート。その中には同い年の佐藤B作や柄本明がいて今も付き合いがある親友。
その後23歳の時に実は役者をやりたいとカミングアウト。
しかしお定まりの貧乏生活。
年4回芝居をやると長期のバイトができず生活は不安定。
稽古場に行けば誰かがいてお金を貸してくれる。
お金がなくてもちっとも辛くなかったし、今でも苦労したとは思っていない。
楽しかった。

この頃「男はつらいよ」で大人気になったのが渥美清さん。
俳優としてこの映画に出ることが役者のステータスだった。
あろうことか佐藤B作に先を越されてしまった。
さらに柄本明にも。
ただここで自分にもきっとチャンスがあるのではと思い芝居に精進した。

すると「男はつらいよ」のプロデューサーから声が掛かりその内連絡が行くと言われ狂喜乱舞したが、待てど暮らせど一向に台本は届かない。
痺れを切らしプロデューサーに連絡すると「監督に薦めてはいるのだが山田監督は大変人見知りで、知らない役者は使わない」と言われた。
そうこうしているうちに倍賞千恵子さんの舞台の話が来て、これに出れば山田監督が観に来て下さるのでは、そうすれば「知らない役者」とは言わせないと考え即座に「やります」と。
そして倍賞さんに「舞台をやられる時には当然山田監督はお見えになられるんですよね?」と訊ねると「いいえ、一回も来て下さったことはありませんよ」と言われガックリ。
しかし何とその舞台に監督がカメラマンとお見えになりしばらくして台本が届き夢が叶った。
「倍賞さんのお陰で出演でき今でも足を向けて寝られません、ご自宅がどちらかは存じ上げませんが」
これ以降山田監督の作品にずっと今でも呼んで頂いている。
「B作や柄本は1回こっきりですから」と。

そしてこの出演を機に憧れの渥美さんとの交流もスタート。

山田監督の「武士の一分」では日本アカデミー賞「最優秀助演男優賞」を始めいくつも賞を頂いた。

お陰で頂く役も徐々に大きくなり、かねてより教科書に出ていて自分に似ていたのでやりたかった秀吉の役をNHKから貰い、視聴者から「信長より年上の秀吉はあり得ない」と投書が来たりした。
秀吉の臨終の場面では監督から「もうちょっと早く死ねませんか?」と言われたりも。

亡くなるまで続いた渥美清さんとの交流の数々のエピソード。

随所に笑える話題をちりばめ飽きさせまいとの一生懸命さが伝わり、尚且つ不遇な時に腐らず怠ることなく勉強し努力を続け、来たるべきチャンスに備え巡ってきたそのチャンスをいかに掴み取るかという主題がさりげなくだがしっかりと伝わるとても良い講演でした。

戸田奈津子先生の講演を聴いてきました2015/05/27

2月3日(火)に都内で弊社お得意様ご主催の戸田奈津子先生の講演を聴いてきました。
中高生対象でテーマは「字幕の中に人生」でした。

本来は講演が生業ではないこと、本業が多忙で数もなかなかお請けできないとのことからホームページに掲載しないで欲しいと言われ非掲載ですが、今回の聴講録は特別に掲載をご許可下さいました。

当日は駅の改札口で戸田先生と待ち合わせ、当社が3日前にも地方で講演をお願いしておりましたのでそのお礼を申し上げながら、会場までの道中色々なお話を伺いました。
その中で私の母と同い年ということがわかり、母には申し訳なく思いましたが現役でそれも第一線で仕事をされておられる戸田先生のお若いことに驚かされました。
先生ももし子供がいたら「私ぐらいの(見事なおっさんですので)年令かと思うとビックリだわ」と仰いました。

さて講演の方はというと「環境は随分と変わってしまったが皆さんと同じ道を少し早く歩いてきた者としてヒントになることがひとつでもあれば嬉しく思います」とスタート。

自分の手の中に宝物があるとそれになかなか気づかない。
皆さんは宝の山の中にいるのと同じで本当に幸せだという認識をまず持ってもらいたい。

中学高校時代は『The Best Time of Your Life 』(あなたの人生で最高の時)。
今の自由な時間で好きなことを楽しみ、この時期を基盤に人生の目標・進む道をぼんやりとでいいから模索しながらちゃんと将来役立てるように使って欲しい。
かく言う私は毎日友人たちと遊んでいて未来の事は何も考えていなかったので後で色々と苦労した。
この時期に得た一番のものは友人。
大学も社会へ出ても友人はできるが生涯を通じ付き合え人生を変えるくらい大きな影響を与えてくれる本当の友人は小学校から高校までの間で出来る。
そういう友を大事にして欲しい。

そして自分の好きなことをやって欲しい。

テレビの無かった時代、パソコンで検索すれば世界中の情報がすぐ見られるという今は想像すらできないこと。
食べるものも無い終戦後の日本しか知らない少女時代に大きなスクリーンでアメリカの夢のような別世界を見てぶっ飛び、カルチャーショックを受けた。
すぐさま映画の虜になった、私だけではなく日本中が。
これが今の私の出発点。

戦後70年、終戦の8月15日の翌日から「これからの時代は英語だ」と言われ続けて久しいが日本人は上手になっていない。
ただ、英語の授業を増やすために国語の授業を減らすことには反対。
日本人である以上正しい日本語で書けて話せて読めるということは最低限必要。
日本人にとって日本語はアイデンティティ。
本を読み、書くことが疎かになってはいけない。

中学に入り英語の授業が始まり、映画が好きだったので映画の一部である英語も好きだった。
もし映画が好きではなかったら英語なんか大嫌いと思っていたかもしれない。
好きな人のことを知りたい、知ればまたもっと知りたくなるのと同じ。
あるドキュメンタリー番組でイチロー選手が最後に「一番のモチベーションは?」と訊かれ「野球が好きだから」と答えていた。
まさしく彼の言う通り、“好き”ということがどれほどの力を発揮するかは彼のキャリアを見れば明らか。

私は大好きな映画の事をもっと知りたいからそれを理解するためにオマケで英語の勉強をした。
授業での英語は楽しくない。
おそらく今までの教科書の中で読み始めたら面白くて一気に最後まで読んでしまったなんてものは皆無。
でも好きなことの本などはそういう教科書たり得るのでは?

英語を継続して学ぶ知恵をお裾分け。

タイタニックのレオナルド・ディカプリオが一夜にして大スターになってしまい苦悩し克服した話。

校長先生に控え室で「変わった職業を選ばれましたよね」と言われたが、確かに字幕の翻訳をやっている人は変わっている人が多いが数は少ない。
私が志したころは日本に10人しかいなかった。
そして映画会社が東京にしかないので東京にしかいなかった。
この10人が全員年配の男性。
ここに女子大出の女の子が入れてくれと言ったところで入れる訳がない。
まるで高い塀が巡っていて入口が無いという業界。
この塀の周りをぐるぐる回ることを20年間やった。
でも回っていたからといっていつになったら入れて貰えるという業界ではないい。
そうしている時にコッポラ監督(の「地獄の黙示録」)との出会いでこの世界にやっと入ることが出来た。
ラッキーだっただけでもしかしたら一生叶わなかったかもしれない。
ぐるぐる回っていた20年間に揺らぐこともなく、一度も辞めようと思ったことも無かった。

字幕翻訳の仕事はたった一人で一週間で仕上げるのが通常。
直訳すると字幕が画面一杯になるので読み切れる字数、短い言葉にしなければならないことが一番の特徴。
小説の翻訳とは真逆。

そこへ行くまでは大変だったけどプロになってからは忙しいけれど仕事はとても楽しかったし今も楽しい。

ハリウッドスターや監督たちは才能があって努力しないと決してその地位まで辿り着けない。
そして人柄も良い。
大勢のキャストやスタッフの先頭に立ち引っ張っていかなければならないので当たり前と言えば当たり前。
リーダーシップがあり人を惹きつける魅力を持っている。
BIGになればなるほど謙虚になり、思いやりがあり威張っている人はいない。

今の映画はCGが全盛。
そのキッカケになったのはジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」だと思う。
彼は6話までの内容を10代の時に考え、純粋にそれを誰かに伝えたいと思っていた。
特撮技術を考案してお金儲けをしようしていた訳ではない。
自分の頭の中にある宇宙の話を人に聞かせたい、そのためには技術がないと宇宙の話が描けない。
それでコンピューターを使いCGという技術を開発した。

また、同じことを3Dという技術を産んだタイタニックの監督のジェームズ(ジム)・キャメロンも。
彼は3D技術を使った「アバター」という映画を撮った。
タイタニックで莫大な儲けを出したにもかかわらず彼はその後何年も一切映画を作らず、その儲けたお金と時間を注ぎ込み3D技術を確立しようとした。
なぜか?
彼も「アバター」の話を中学生の時に考え立体的に見せたいと思った。
まさにルーカスと同じこと。
たくさん3D映画が世に出たがアバターがベストだと思う。
それは3Dの特徴を最大限に活かしていることもあるが、他はなぜ3Dで見せなければならないか、というポリシーが無いからかもしれない。

この二人が10代の少年の時に考えた話を人に見せたいというシンプルなモチベーションに由来し、命を懸け技術を自分で開発し、(3Dカメラはジムがデザインから取り組んだ)自分の力で作り上げ夢を実現した。
そして映画を、世界を変えた。

皆さんにもきっと同じようなことが出来るはず。
彼らだって宇宙人ではなく同じ人間なのだから。

聴講した中高生に輝かしい未来が待っているというエールを送り終えられた。
是非若い人たちに聴いて頂きたい内容でした。

戸田先生の全てのスケジュールが詰まっているスティーヴン・スピルバーグ監督から頂いた年季の入った貴重なfilofaxの手帳を少しだけ見せて頂きました。
帰路もご一緒し「今は好きなことをやるようにしているの」と仰った戸田先生は若々しく輝いておられました。

野口健先生の講演を聴いてきました2015/05/13

1月30日(金)に都内で弊社お得意様ご主催の講演会で野口健先生「目標を持って生きることのすばらしさ」と題しての講演を聴いてきました。

初めて日本に来たのが幼稚園の時。
当時はこんな顔は珍しく今でもそうだが「ハーフですか?」と訊かれた。
父親は日本人だが母親がややこしく、母方の祖母はフランスとギリシャのハーフ、祖父がエジプトとレバノンのハーフ。
ですから答えるのが大変なので「雑種です」と答える。

当時外人が来たといじめられ幼稚園に行きたくないと朝布団から出ないで寝ていると、母ちゃんが布団を引っぺがし、幼い野口氏の股間についているモノを掴み、ギューッと捻りながら引っ張る。そして日本語が上手ではなかったので「あなたいじめられる、いじめられて逃げる、逃げるあなた男じゃない、男じゃないあなたチンチンいらない」と訳の分からないことを言われたが本当に取れるんじゃないかと思うくらい痛かったので仕方なく幼稚園に行った。

その後小学校で勉強ができず落ちこぼれ、中学1年で先輩を殴り鼻をへし折り2ヵ月の停学。
お決まりの不良コースまっしぐら。
その停学中にフラフラしていてフラッと入った書店で植村直己氏の『青春を山に賭けて』が目に留まった。
山に興味は全くなし、植村直己氏のことも知らなかったがこの本に何かピーンとくるものがあったので手に取り買ってみた。
読んでみて植村氏が日本人として初めてエベレスト登頂を果たし、世界で初めて五大陸の最高峰の登頂をされた世界的な登山家だということを知った。
その著書の中で直己さんが「私は人並み以下」でなかなか就職もできずフラフラしていた時に山が好きだったのでこれだけは続けようと船でアメリカに渡り、仕事をしながらお金を貯めてはヨーロッパへ行ったりしながらコツコツ山を登っていた。
日本人初とか世界で初とかという大きな野心を抱いていた訳ではなく、今自分で出来ることは何だろう?とやれることをとにかくコツコツとやり続けた結果日本人として初めてエベレスト登頂を果たし、世界で初めて五大陸の最高峰の登頂を成し遂げた。
停学中のお先真っ暗の状態の時にこの本に出会い、コツコツやり続ければ自分も何か出来るのではないかという一筋の光明を見出した感があり、「山ってなんなんだろう?」と救いを求めるかのように山にのめり込んでいったのが15歳の時。
そして高校時代にモンブランとキリマンジャロに登り、当時登頂した高校生はいなかったのでちょっと注目され、それまでに他人に評価されたことが無かった自分の家までわざわざ新聞記者が来てくれて取材されていると横からお父さんが入ってきて「まるでウチの倅が立派なことしたかのように皆さんは訊きますが、確かにコイツは高校生で初めてモンブランとキリマンジャロに登ったかもしれないがヨーロッパやアフリカに行く旅費は俺が払ってるんだから」と。
さらに「モンブランとキリマンジャロ登頂はコイツの成功じゃなくて、お金を払った私(お父さん)の成功なので、そこをちゃんと記事に書いてもらわないと」と力説していた。
よほどお金を出したことを言いたかったらしい。

この後冒険にはお金が掛かるので自分で集めるよう父親にも言われ、自身もそう思い、集め方がわからないので兄に訊き様々な方法を模索しながらも失敗続きだったが何年もかけてやっと23歳の時に一千数百万円集めてエベレストへ行くことになり史上最年少での七大陸制覇へ王手をかけ記者会見。
生まれて初めての会見。
もの凄い緊張の中一番多い質問が「自信はありますか?」。
内心は行った事が無いのである訳ない。
何度も登った今も自信は無い。
その会見では二人目までは有耶無耶にしながら何とか誤魔化していたがさすがに三人目は許してくれず「自信があるのかないのかYESかNOかで答えて」と言われ、自信が無いとは言えずに逆切れ気味に「ない訳ないじゃないですか!あるから行くんです!」と心の中では「あれっ!?言っちゃった」と言う感じで言ってしまった。

8000m級の山は一気に登ると高山病で命を落とすので、いくつものキャンプを張りながら徐々に体を慣らしながら登る。
1ヵ月半くらいかけてゆっくり登るのだが第三キャンプぐらいで頂上が結構近くに見え、シェルパに「行けるか?」と訊くと彼らは薄い空気に慣れているので「大丈夫じゃないですか」とすぐ言う。
それに乗せられて一気にカタを付けようとすると大変なことになる。
シェルパは先に行き後からついて行こうとすると脳が酸欠状態になり意識が朦朧とし眠くなり眠ってしまった。
シェルパは何時間経ってもケンが登って来ないので下りて見に来た時には酸欠のショック状態で口から泡を吹き、その状態を見たシェルパは力一杯殴った(らしい(翌日顔がアザだらけでわかった))血中酸素濃度計で測り「43」という数値、これは死んでなきゃいけない数字。
そのさなか3人のシェルパが引きずるように下山させてくれた。
脳が壊れたと思った。
初めてのエベレストは一言で言うと素人の大失敗だった。
だがこの失敗で何が足りなかったか、次は何をすべきかが否が応でも見えてきた。

翌年二度目のエベレスト挑戦。
8500mを越えた所まで順調に来て「貰ったな、よし」と思ったら晴天が猛吹雪に変わった。
あと残り300m、一緒に登っている相方とお互いに「行く?下りる?どうする?」とジェスチャーで「行くか、下りるか」の思案を1時間くらい繰り返し、最終的に彼は「行く」、自分は「下りる」という決断を下した。
これも登頂できなかったという観点からすれば失敗。
この時にキャンプに戻って考えたことは頂上目指して行った彼に無事に下山して欲しい思いと登頂に成功して欲しくない思いが交錯。
平たく言うと無事に遭難して無事に帰って来て欲しいという相反する思い。
結果彼は他の隊に奇跡的に救助されたが両手両足の指は壊死し、ほぼ全ての指を切断し失明状態。
この時の判断は間違っていなかったと思った。
つまり成功ではないが失敗でもない、と。

何が成功で何が失敗か?
世間からは登頂すれば成功、出来なければ失敗、さらに無理はしないでと言われるので厄介。

二度の失敗で「何が何でも」という考え方は捨てようと考えるようになった。
するとなぜか気持ちが楽になった。

そして三度目で登頂に成功。
帰国後の記者会見で記者から「今度は厳冬期の真冬のエベレストに行きませんか?」と言われ内心「お前が行けよ」と思ったが不思議とその期待に応えようとする自分もいる。

自分の中で一番大きかったことはエベレストで「何が成功で何が失敗なのか」ということに向き合い、人生成功ばかりでも失敗ばかりでもないという所に行きついたこと。
そして皆が憧れる彗星の如く現われ一気に頂点にたどり着いた人は落ちるのも一瞬。
やはりじわ~りじわ~り、コツコツ土台をしっかり作りながら一歩一歩確実に歩みを進める方が結果的に良いのではと思う。
富士山の清掃活動も最初は100人でスタート、4~5年で500人位までに増え、今では7000人も来てくれるようになったそうで、これもコツコツ続けてこられた成果。
一つの事を長く継続していると飽きてくるし辛くもなる。
新しいことは新鮮で興味も湧き確かにやる気にもなるが、長く続けることこそが大切だと思う
と結ばれた。

野口先生のお話はユーモアもあり、多くの失敗を繰り返す中でわずかな成功を掴むという繰り返しの人生だなぁと、ありがちな自慢話のオンパレードの逆でとても興味深く楽しく聴かせて頂きました。
講演後に質問も受けられ丁寧にお答え下さり90分の講演が2時間を遙かに超えてしまいましたがあっという間でした。
この後植村直己さんの奥様と植村直己さんの行き付けだったお寿司屋さんで待ち合わせてお食事だと言われ会場を後にされました。

石平先生の講演を聴いてきました2015/04/30

1月27日(火)に都内で弊社のお客様ご主催講演会で石(せき)平(へい)先生「中国の国際戦略と日中関係」というテーマでの講演を聴いてきました。

四川省の出身。唐時代の李白、近代では鄧小平の次に有名なのが「私石平です」と軽く笑いを取り本題へ。

中華人民共和国誕生の経緯と現状。
ある中国の歴史学者が毛沢東の唯一の功績は「亡くなったこと」と皮肉っていた。
経済力を身に付ける⇒軍事力を身に付ける⇒中国の覇権的国際戦略の実現という目的を持ち今までやってきた。

そして新しく海洋進出戦略。
東シナ海と南シナ海の支配。

尖閣はどう考えても日本の領土。

中国内の反日デモは官制デモ。
政府が手配したバスに乗ってやって来て帰って行く。
北京の日本大使館前で生卵を投げた時も政府が用意した「お一人様2個」などと言われ配られた生卵を投げていた。
中国人は自分が損することは絶対にしない。
中には投げずに家に持ち帰った人もいたらしい。

現在中国政府は官制デモが反政府デモに変容するため一切反日デモはやらせないという方針。

習近平のスローガンは「民族の偉大なる復興」。
近代から現代の100年間は中国にとって「屈辱100年間」だった。
そして中国が一番許せないのは日本。
つまり100年間の屈辱を清算し、近代以前の栄光ある地位を取り戻すこと。
海における中華帝国の復権を目指している。

中国はアメリカに対し「アジアの安全はアジア人が守る」と言う。
これは中国の理屈だと「アジアの事にアメリカは口を出すな、アジアから出て行け、中国がアジアを支配する」ということ。

これに対しオバマ大統領は「アジア回帰」という方針を打ち出した。
中国に対抗する為海軍・空軍の60%をアジアに配備する決定をした。
アジアの覇権は絶対に中国に渡さないという強い意志の表れ。

アジア諸国による中国包囲網外交について。
北京でのAPECの話。

最後に日本企業は、国は中国とどう付き合っていくべきか?
個人的な意見だが日本企業はもっと慎重に付き合うべき。
中国ビジネスの一番良い時期は終わった。
今後はメリットよりもリスクの方が大きくなるかもしれない。
これも個人的な意見だが日本国はリスクを十分理解し、ほどほどに付きあっていくべきだと思う。
深入りするとろくなことはない。
中国の周辺諸国と上手に付き合う方がいいかもしれない。
このように締められた。

武田双雲先生の講演を聴いてきました2015/04/13

1月26日(月)に都内で弊社のお客様ご主催講演会で武田双雲先生「自分を最大に活かす方法」というテーマでの講演を聴いてきました。

講演前少し時間がありましたので主催者との名刺交換の際には主催者の方お一人ずつお名前を先生の名刺に「◯◯さんへ♡ 双雲」と筆で記されお渡しされておられました。
ご担当の方もきっと良い思い出になられたことでしょう。

また、ちょうどこの日の講演の前にCM撮影。
現在OA中のサントリー「ザ・プレミアム・モルツ『マスターズドリーム』」のCM中の黄金色の「夢」という字をまさに書いてこられたばかりとのことでした。

街を歩いていても文字ばかり気になるという武田先生。
文字が好きなだけで今がある、とも。

書道家の仕事とは昔から神の言葉をシャーマンとして伝えることだった。
(不遜ながら「トリック」の野際陽子か!と心の中で軽くツッこんでいました)

カルロス・ゴーン氏とも個人的に交友があり書を頼まれて書いたものが彼の会社の部屋に掛けられている。

「夢」とは、「ビジョン」とは。
数学的でもあり哲学的でもある話。

NTTのサラリーマンの新人時代に役員会議の際のお茶汲みをさせられ、会議の最後に「何か質問は?」と訊いていたので我慢しきれず「はい」と手を挙げ、「この会議のビジョンは何だったんですか?全然見えなかったんですが。」と言ってめちゃくちゃ怒られ、なぜ怒られたかがわからなかったというエピソードも。

何が正しいか、これが正しいというものは無い
受け取り方、考え方で真逆になる

数字(売上)が上がれば幸福になる。
それは数字が上がらなければ不幸になる、ということと同じ。
売り上げを上げたい自分と、売り上げを上げられない自分とがいてアクセルとブレーキを同時に踏んでしまっている。
執着を取り払うことが大切

自分が勤めている会社が成長すれば自分も幸福になれるのではなく、毎日自分が幸福なら会社が成長すると言う風に考える事。

ビジョンをブラッシュアップするとは。
友人の中田英寿氏の例を挙げ、彼は中学生の時にセリエAでプレーしている自分の姿をしっかりと見据えていた。
そして、高校生の時にインタビューされた時に「イタリア語の勉強をしている」と答えていた、と。
これと同じような話は以前山本昌邦氏からジュニア(中学生)選抜のコーチだった頃、中田氏が合宿に参加し、練習後の自由時間に読書をしていて「ヒデ、何読んでるの?」と訊くと「イタリア語会話の本です」、「何でイタリア語会話なの?」、「将来僕はセリエAでプレーするからです」と言っていたという話を聞いていたので「本当だったんだ」と改めて知った。

自身は書道家としての目標は持っていない。

多くの成功者と言われている人たちに会うと実力的には一般の方と大差ない。
何が違うかと言うと「運が良かった」と異口同音に言う。
つまり自分が掴み取ったものだと思っていないということ。
「お陰様」と本気で思った人が大成しているし長続きしている
「お陰様」という言葉は光が当たらなくて見えない“陰”に“お”と“様”を付けている非常に奥深い言葉で「感謝」という言葉に置き換えられる
心から感謝をしていないとダメで、「感謝してるんだけどね」は論外。

現在武田氏は「世界感謝デー69」を主宰。

波動、悟り、感謝といった抽象的な表現の中にも具体的な内容もあり、講演後には他の講演ではなかなか味わえない不思議な感覚がありました。
さすがシャーマン、惹きつける魅力たっぷりでした。
書道家であり“哲学者”でもある方なんだなと思った。

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