小学生時代は親の海外転勤に伴い、ドイツで生活、現地のスポーツクラブで色々なスポーツを体験。
帰国後は、日本国内のテニスのジュニアタイトルを多数獲得、夙川学院高校では、1988年、高校1年生の秋に並いるプロ選手を破り、全日本テニス選手権の女子シングルスに優勝。また、四大大会の日本人最年少勝利記録など数々の記録も保持。
1991年、神戸松蔭女子学院大学入学と同時にプロに転向。
WTA世界女子プロテニスツアーでシングルス優勝4回。自己世界最高ランキングは14位。
四大大会は「34大会」本戦にストレートイン。
オリンピックには、1992年バルセロナ五輪と1996年アトランタ五輪の2度出場した。
1995年1月、全豪オープンの期間中、阪神淡路大震災が発生、自宅は全壊の被害に遭ったが、家族は奇跡的に全員無事。しかし発生から数日間、被災地とは全く連絡がつかず、関東在住の叔母・沢松和子氏(現姓吉田)の叱咤激励を受けての戦いだった。この全豪オープンではベスト8に進出。四大大会の自己最高成績を記録した。
祖先は伊予大洲藩士、明治に入り松山に住み、高祖母は日本に入ったばかりの野球を通じて正岡子規氏と交流があった。曽祖父は関西に移り住み、貿易会社を起業。海外顧客の接遇のために、自宅にテニスコートを設け「テニスの澤松家」の祖となる。
母・順子氏と叔母を育てた名コーチ、祖父・豊氏は、長く日本のテニスの発展に寄与した功績により瑞宝双光章叙勲。
叔母・和子氏はアン清村氏とのペアで、1975年ウィンブルドン女子ダブルスで日本人初の四大大会優勝、母も和子氏とのペアで1970年同大会女子ダブルスベスト8、父・忠幸氏もウィンブルドン出場。
現在は、テニス解説者・スポーツコメンテーター。
テレビでは、RKB毎日放送系の朝のニュース番組「あさチャン!」、関西のMBSの人気番組「ちちんぷいぷい」にもレギュラー出演。
東レ・パンパシフィック・オープンテニスでは大会アンバサダー、またワールドマスターズゲームズ2021関西大会の実行委員会評議員を務める。