都内で弊社お得意様ご主催で村口史子(むらぐちふみこ)先生の「私とゴルフ」と題しての講演を聴いてきました。
中学から高校(習志野高校)1年までバレーボールをやっていたが挫折し辞めてしまった。
就職も証券会社を失敗し、友人の紹介である会社に就職できたが、OLに向いていない。
どうしようか思案している時に「ゴルフやってみれば」と誘われた。
お父様がゴルフ好きだったが、自身はそれまで全く興味が無かった。
当時テレビで男子のゴルフ中継を見てもボールを置いて打って、歩いて行き、待っている間にタバコを吸っていて、これのどこがスポーツなのかと思っていた。
でも仕事のあまりのつまらなさにゴルフショップでピッチングとアイアンの5番と7番を買って一人で練習場へ行くようになった。
球技(動いている球)には自信があったが、止まっている球にうまく当たらないことに驚いた。
今でもその衝撃的なゴルフとの出会いを覚えている。
それからちゃんとレッスンを受けようと最初にレッスンプロに教わったのが、その後ずっと師弟関係となった千葉カントリークラブのヘッドプロだった郡司洋(故人)氏。
当時は18歳から始める人もいて「これだ、プロゴルファーになりたい」と思った。
ルールも知らず、コースにも出たことが無いのに。
そして師匠に「プロになりたいです」と言ったら「プロゴルファーは大変だからやめた方が良いよ。女の子はお嫁に行った方が・・・」と言われても何度もお願いをしていたら、「血液型は何型だ?」と訊かれ「B型です」と答えたら「じゃあうちへ入れ(千葉カントリークラブの研修生)」と。
その当時のトッププロ(青木功氏、ジャンボ尾崎氏など)にB型が多かったからという理由。
ただし5年というプロテスト合格期限を設けられた。
名門コースのキャディから始めることになるのだが、なんと初日にあり得ない格好のジャージで行ってしまった。
研修生は昼間キャディをし夕方からのコースが空いている時間に練習をする毎日。
2か月ほど経ちコースに出してもらえることになり、先輩がマークした100円玉をお金が落ちていると勘違いして拾ってしまい大失敗。
そんなスタートだった。
同門には不動裕理選手。
彼女は村口先生が賞金女王になられた1999年の翌年2000年から2006年まで連続で賞金女王。
期限ギリギリ5年目の最後のプロテストのエピソード。
韓国選手が出てきた時のカリー・ウェブ選手の言葉「思い込み、勘違いしている選手が凄く強い」。
古閑美保選手がラウンド中に言った言葉「私の人生でうまくいかなかったことは何一つない」。
ことほどさように勝てる強い選手は切り替えが早い。
プロになった翌年にサントリーレディースで初優勝したが、キャディにご祝儀をあげるということを知らずに帰ったら催促の電話が来たりと、プロになっても知らないことがたくさんあった。
優勝の副賞について。
車はもらって家族が乗ったりすることもあるが、約60%で現金で頂いたりもする。
キャットレディースの副賞はユンボ。
これはお世話になっているゴルフ場にあげたり、震災被災地に寄付したり。
唯一木村敏美プロはご自身で使っている。
ヤクルトレディースを勝った時は「ヤクルト1年分」で、一度に1年分送られてきて、賞味期限があるのであわててご近所に配りまくった。
94年にシード落ちも経験。
99年に賞金女王になったが秋口から腰痛で満足にスイングもできない状態。
翌年は賞金女王になったことで試合を休めず腰痛が悪化。
04年にシード権を持ったまま引退。
その時に師匠の郡司プロから「おめでとう」と言われ、とても嬉しかった。
人生良いこともあれば悪いこともある。
悪いことがあったときに必ず良いことがあると思って、切り替えて前に進むことが大切なのではないかと思う。
栄光と挫折の両方を経験され頂きを見た村口先生の言葉は重いと思いました。
ゴルフは生涯スポーツ。
引退しても楽しんでいる。
先生のお父様の知人でもある93歳の石井朝夫プロとゴルフの約束もした。
チバテレビ「村口史子のグッドゴルフ」エピソード。
ストレッチや練習方法の指導。
もちろんワンポイントレッスンも。
上手くならなくてもいいですから是非グッドゴルファーになってゴルフを楽しんで下さい、と締められた。
講演中にはにかむように笑うところがとてもチャーミングで、ゴルフ好きにはたまらないと思います。
会場によってはゴルフクラブを振れない所もありますのでそのあたりのご確認を忘れずになさって下さい。
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